明智光秀(本能寺の変)に関する新説(四国説)とは?【本能寺の変サミット2020】

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どうも、ノムリンです。
戦国武将の中でも一番有名といえるのでは
ないでしょうか。明智光秀の名前を知らない人ははいないですよね。
今日はその明智光秀の起こした、最大の謀反、クーデターである
本能寺の変について

気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺の変」について

歴史激論バトルを繰り広げ

根強い定説から珍説、新学説というものも登場しました!

爆笑問題司会の「本能寺の変サミット」2020年現在の最新「本能寺の変」決定版です。

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戦国時代、明智光秀の本能寺の変最新情報

日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変。

明智光秀はなぜ主君・織田信長に謀反したのか?

その謎は今も諸説紛々。

怨恨(えんこん)説や野望説、共謀説、突発的犯行説

四国説、構造改革反発説、鞆幕府推戴説、信長暴走阻止説などがある。

一方、近年新たな史料の発見により従来の織田信長や明智光秀のイメージが大きく変わりつつある。

根強い定説から珍説、新学説まで一挙登場!

2020年現在の最新「本能寺の変」決定版!

信長、光秀に関する説

怨恨説

この怨恨説は、信長にいじめられていたというもの。

今までの通説ですね。

この説の1つの根拠となるのが

惟任これとう退治記」天正10年(1582)

本能寺の変4か月後に羽柴秀吉が書かせたもの。

光秀を討伐したという記録が載っている。

その中で光秀が謀反を起こした動機に関して以下のように載っている。

この中で出てくる逆位とは?なんであったのか。

後世の資料でさまざま語られているが

中でも有名なのが「川角太閤記」での

「徳川家康の饗応役解任」をめぐる確執

本能寺の変2週間前

天正10年5月 安土城にて

同盟相手の信長をねぎらうため安土城に招き

盛大にもてなすことになった。

その準備の饗応きょうおう役(接待の仕切り役)を任されたのが光秀

であったといいます。

その際、好物の鯛から悪臭を放っていたことで

光秀は足蹴にされてたというのです。

この暴力的な行動は宣教師の

ルイス・フロイスの「日本史」の中の記述でも

見ることができます。

人々が語るところによれば

彼の好みに合わぬ要件で明智がことばを返すと

信長は立ち上がり怒りをこめ一度か二度

明智を足蹴にしたという事である。

と記述されている。

さらに怨恨説には光秀の右腕と言われた

斎藤利三としみつをめぐるものも。

それは。。。

本能寺の変1か月前のこと

織田家家臣の家老を明智家に斎藤利三が引き抜いた

これを聞いた信長は激怒し

斎藤利三の切腹を命じたというもの。

利三をかばう光秀を信長は激しく叱責した。

この時光秀のプライドをズタズタにするアクシデントが。

それは、武士の命であるつけがみ(当時のカツラ)が

取れてしまったといいます。

光秀は髪が薄い事を気にして

普段からつけがみを付けていた。

それを人前で落とされてしまい

屈辱を味わったという。

この事件が起きたのは本能寺の変の4日前だった。

以上の内容から

信長に対する積年の恨みが本能寺の変の原因だったと考えられている。

本能寺7の見解は

みなさん、反対とか一部賛成、どちらでもないという

解答を出されていますね(;’∀’)

どういう事なのでしょうか。

資料自体が世論というか、人々が話している内容であって

本当かどうかはわからない。

資料の成り立ちを考える必要があるというものでした。

秀吉が故意に、自分上げ、光秀下げの為に書かせたものと

思われるものも多く。吹聴している資料の可能性が高い。

惟任退治記はその典型といえる。

 

怨恨説のまとめ

根拠となるエピソードの多くは二次資料であって

後世に脚色されて書かれたものが多く

おおむね否定的

共謀説

誰か、共謀している人がいたのでは

宣教師ルイス・フロイスによると

光秀について「日本史」より

「彼は裏切りや密会を好み

己を偽装するのに抜け目がなく

計略と策謀の達人であった」

このように記載されている。

光秀と何者かが手を組んで本能寺の変を

起こしたというもの。

「朝廷共謀説」「徳川家康共謀説」などがあるが

中でも衝撃的なのが

「イエズス会共謀説」

キリスト教布教の為、33年前から活動を開始。

イエズス会は次なる中国進出の為に日本での基盤を固めるべく

信長の天下統一を経済的に支援していたといいます。

しかし、信長がほぼ天下統一を手にし天下人になると

コントロール不能になっていった。

信長の言動について

「途方もない狂気と盲目に陥り

自らに優る宇宙の主なる造物主は存在しないと述べ

彼、すなわち信長以外に礼拝に値する

者は誰もいないち言うに至った」

神をも冒涜する存在へとなっていった

本能寺7の見解は

全員が反対ですね。(;’∀’)

なぜなら、日本の記録に皆無だから。

信長はキリスト教だけでなく

法華宗や禅宗などの他の宗教とも結びついていた。

そうした実態からも考えづらい。

しかも、宣教師オルガンティーノは本能寺の変の後

明智軍を恐れて避難したとなっている。

これも共謀説としては説明がつかない。

共謀説まとめ

根拠となる資料が乏しく否定

鞆幕府推戴ともばくふすいたい説(新説)

広島県福山市にある惣堂神社のご神体は

室町幕府第15代将軍の足利義昭

と本能寺の変をつなぐものが鞆幕府推戴説

 

本能寺の変の9年前

1573年(元亀4年/天正元年)室町幕府滅亡

足利義昭は信長に槇島城の戦いで敗れ京都から追放された。

とされていたが

実は足利義昭は広島県の福山市鞆の浦で

鞆幕府という勢力の中心にいて

再起を謀っていたいう。

なぜ、鞆の浦だったのか

それは

広島県福山市の小松寺は

室町幕府初代将軍の

足利尊氏が京都で幕府を開く直前

必勝祈願で立ち寄ったとされるお寺であり

再び上洛を果たし幕府復興をもくろむ

義昭には縁起のいい場所だったというもの。

また、鞆の浦は人、モノなどが行きかう

交通の要所で戦略的にも有利な場所だった。

信長と敵対する毛利氏などと手を組むことで

打倒信長を画策していた。

鞆幕府推戴説とは

光秀が上洛を望む義昭に近づき本能寺の変を起こしたというもの

その証拠となるのは

本能寺の変から10日後に書かれた

「土橋重治宛光秀書状」

そこには

「上意への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。

しかしながら(将軍の)ご入洛につきましては既に

ご承諾申し上げています。

信長亡き後、上意とは足利義昭以外

考えられない。

室町幕府再興のために

光秀は本能寺の変を起こしたのだろうか?

構造改革反発説

世は戦国時代、自分たちの城や領地をいかに守り拡大するか

大名たちによる土地の奪い合いは100年近く続いていた。

それを終わらせるべく発案したのが

預治思想よちしそう

土地はあまねく天のもの

それが天下人の信長に与えられたもの

それを各代名が預かっているだけ。

それにより、土地をめぐる争いはなくなるというもの。

この預治思想は秀吉、家康に受け継がれ

幕藩体制の礎へとなっていく。

その他、「一国城割」を命じられた筒井順慶は

大和の城のみを残し、その他はすべて破壊された。

その他、見ず知らずの土地に移す「国替え」

などを命じた。

 

まとめ

革新的なのは信長か?秀光ら家臣たちか?

見解は分かれた。

太閤検地などは信長があってのものだったのでは?

信長のビジョンの下でやっていたのか

光秀たちには独自のビジョンがあったのか。

【検知と石高制に基ずく近代的軍役動員システム】

田畑の面積を実測

×

一定のコメの量=石高

村内の石高を足す

村の規模が数字で表現できる

信長暴走阻止説

終わりの見えない戦争の日々

明智光秀覚条々には

本能寺の変7日後

関係の深かった大名

細川氏へ宛てた

その中で、

自分の息子や、細川忠興

などへ権力を以上させるのが

目的で私利私欲は無いと。

事実上の引退宣言のような資料。

信長暴走阻止説まとめ

本能寺の変は光秀が天下を取るためではなく信長の時代を終わらせ、

次世代に渡すためだった可能性も。

四国説(新説)

2014年、驚きの発見がありました。

岡山県で所蔵されていた

石谷家文書いしがいけもんじょ

斎藤利三と長宗我部元親らの手紙のやり取りが収めれている。

膨大な数の手紙

四国統一を目指していた戦国大名の長宗我部元親は

信長と同盟関係にあり

その間を取り持っていたのが

明智光秀だった。

戦いで勝ち取った領土は自分のモノにしてよいという

信長からのお墨付きをもらって三好と争っていた。

中国地方を制定目前というところで

信長は一変する。

信長は天正9年、本能寺の1年前

信長は突然、長曾我部ではなく、三好家と接近

元親が戦いで勝ち取った領土の一部を返上するように要求

したのだった。

天正10年1月11日

斎藤利三書状には

「元親の為に光秀は尽力している」

と書かれている。

突如手のひらを返された元親の為に

光秀が間を取り持ち奔走していた。

石谷家文書からはその妥協案が記されている。

本能寺の変から10日前

元親から斉藤利三に出された手紙には

「信長との間を取り持ってくれたことは

忘れない、阿波国内の主要な山城は明け渡す」

このように領土返上を渋っていた元親に

光秀は元親の説得に成功したのであった。

ところが、信長は情け容赦ない決定をするのだった。

光秀の尽力も虚しく、四国出兵が決まるのだった。

元親討伐に向かうまさにその日

6月未明、本能寺の変を決行したのである。

四国政策の手のひら返しが本能寺の変を引き起こさせたのか?

ポイント:信長と信忠が京都にそろったという状況を考慮すべき

信長と信忠が兵力も持たずに京都にとどまることが決定した。

これが決定したのは本能寺の変の3日前

中国出兵が決まっていた光秀の下には1万3千余りの軍勢が

この瞬間、光秀にかつてないほどの好条件がそろった。

そこで本能寺の変を起こしたのか?

四国説まとめ

近年発見された新文書で織田家臣団の対立構造が

浮き彫りに!現時点ではかなり説得力がある。

秀吉陰謀説

本能寺の変のあと

京都 吉田神社神官の

吉田兼見は日記にはこのように書かれている。

「光秀は信長方をことごとく討ち果たし

大津に移動した

私は馬に乗って粟田口まで走り出て

光秀に対面し

吉田家・吉田神社の領地を保証してくれるよう

直接頼んだ」

光秀の下に朝廷からの勅使が訪れた

これは次の天下人に光秀を選んだ可能性が高い。

順調に見えたがこれを覆したのが

「秀吉の中国大返し」

本能寺から200キロ以上も離れていた秀吉が

光秀を倒すべく京へ

本能寺の変からわずか11日後

山崎の戦いで光秀は秀吉に敗れた。

天正10年(1582年)6月13日

本能寺の変で一番得をしたのは誰か?

それは天下人になった秀吉であるといえる。

なぜ秀吉は、こんなにも早く行動できたのか?

秀吉陰謀説まとめ

秀吉の陰謀である可能性は低いが

秀吉は光秀の見本を察知して周到に準備していた可能性は高い

本能寺の変とは

天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた

織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件のこと。

本来、羽柴秀吉の応援に向かうはずが、

織田信長への謀反を起こした。

信長は寺に火をつけ、自刃した。

司会:爆笑問題

本能寺7のメンバー

・藤田達生:三重大学教育学部教授

20年以上 新設の提唱を続けている。

・稲葉継陽:熊本大学 教授で永青文庫研究センター長

光秀の手紙など貴重な資料を保管している。

・福島克彦:大山崎町歴史資料館 館長

光秀の城をすべて踏破

・髙木のぶ子:安土城考古学博物館学芸員

小文書の分析から新たな信長像をさぐる

・天野忠幸:天理大学文学部 准教授

天下人論からみた信長・光秀について

・柴 裕之:東洋大学文学部 非常勤講師

明智光秀に関する著作多数出版している若手研究者

・石川美咲:一乗谷朝倉氏遺跡資料館 学芸員

小文書や遺跡から歴史をたどります。

以上7名が今回のサミットに登場するメンバーです。

ゲストは細川家第18代当主 細川護熙さん

まとめ

いかがでしたでしょうか。

明智光秀の今までの概念が少し変化したのでは

ないでしょうか?

一時の私怨に、光秀が動いたのでしょうか?

そんな単純ことではないような気もしてきました。

歴史は、いろんな解釈ができるから

面白い。

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